キャリアも年齢も身体能力も幅のある8人の振付家・ダンサーが繰り広げる、果てしない反復=再生。
爆音のポップソングにかき消されないよう、まるで音圧に抗うように、舞台上にこれでもかというほど「存在」し続けようとするダンサーたち。
しだいに疲労/倦怠していくことが想像できるが、それでもダンサーの性(さが)ゆえに手を抜くということを知らず、同じ強度で振りを全うしようとする様を目の当たりにして、観客ができること。それは「感情移入」もしくは「無関心」のどちらかでしかない。
ダンサー寄りの居ずまいで観た者(=筆者も)は、やがて自分に訪れるその「感情」に気づいたとき、それを演出家に見透かされたことに、ゾクッとしたはずだ。
徹底して距離を保った者は、この徹底した「置いてけぼり」感に、たまらない居心地の悪さを覚えただろう。
この効果はじつは現代美術の領域ではおなじみのもので、コンセプチュアルアート特有の手法に似ていなくもない。
しかし美術とダンスの動機が微妙に違うためなのか、舞台上に立ち現れたのは「アーティで知的な刺激」とは全く別のものであった。
たとえばバリ・ダンサーのように、一心不乱に踊り続けることで、人間が肉体から霊的に抜け出し、トランスの境地に入ることがあり得るとする。だとすれば、ダンサーたちはマゾヒスティックな悦びにうち震えていたのではなく、どこかパラレルな領域に半身を踏み入れていたのだろうか。
「振付け」という拘束具を身につけている以上、それはなかっただろうが、あながち的外れでもないかもしれない。
「踊ると身体は疲れていくけど楽しい気分になるし、人生は身体はどんどん死に向かうのに楽しく生きようとする。『踊ること』と『生きていくこと』は似ている(後略)」(演出家・多田淳之介氏談)
この「発見」が、「再/生」ダンスバージョン制作の動機であったなら、ダンサーたちの身体感覚と感情は、引き裂かれることなく一体となって、快楽と死に向かっていただけだ。
そこには不条理ではなく、切実な「生」の時間だけがある。
住吉智恵[アートプロデューサー・ライター/「TRAUMARIS|SPACE」主宰]
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