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2014年3月19日水曜日

02. 住吉智恵 「快楽と死に向かう、ダンサーの性(さが)」

おそらく客席の多くを震撼、あるいは憤慨させたであろうこの作品は、なかなか抜けない魚の小骨のようなスッキリしない後味を残していった。

キャリアも年齢も身体能力も幅のある8人の振付家・ダンサーが繰り広げる、果てしない反復=再生。

爆音のポップソングにかき消されないよう、まるで音圧に抗うように、舞台上にこれでもかというほど「存在」し続けようとするダンサーたち。

しだいに疲労/倦怠していくことが想像できるが、それでもダンサーの性(さが)ゆえに手を抜くということを知らず、同じ強度で振りを全うしようとする様を目の当たりにして、観客ができること。それは「感情移入」もしくは「無関心」のどちらかでしかない。

ダンサー寄りの居ずまいで観た者(=筆者も)は、やがて自分に訪れるその「感情」に気づいたとき、それを演出家に見透かされたことに、ゾクッとしたはずだ。

徹底して距離を保った者は、この徹底した「置いてけぼり」感に、たまらない居心地の悪さを覚えただろう。

この効果はじつは現代美術の領域ではおなじみのもので、コンセプチュアルアート特有の手法に似ていなくもない。

しかし美術とダンスの動機が微妙に違うためなのか、舞台上に立ち現れたのは「アーティで知的な刺激」とは全く別のものであった。

たとえばバリ・ダンサーのように、一心不乱に踊り続けることで、人間が肉体から霊的に抜け出し、トランスの境地に入ることがあり得るとする。だとすれば、ダンサーたちはマゾヒスティックな悦びにうち震えていたのではなく、どこかパラレルな領域に半身を踏み入れていたのだろうか。 

「振付け」という拘束具を身につけている以上、それはなかっただろうが、あながち的外れでもないかもしれない。

「踊ると身体は疲れていくけど楽しい気分になるし、人生は身体はどんどん死に向かうのに楽しく生きようとする。『踊ること』と『生きていくこと』は似ている(後略)」(演出家・多田淳之介氏談)

この「発見」が、「再/生」ダンスバージョン制作の動機であったなら、ダンサーたちの身体感覚と感情は、引き裂かれることなく一体となって、快楽と死に向かっていただけだ。

そこには不条理ではなく、切実な「生」の時間だけがある。


住吉智恵[アートプロデューサー・ライター/「TRAUMARIS|SPACE」主宰]

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