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2014年3月19日水曜日

04. 日夏ユタカ「COME/AGAIN」

約80分ほどの作品のなかで、複数の曲がいくども繰り返された。
2回、3回。
なかでも、この作品の前身でもある東京デスロック版『再/生』では8回掛けられていた、ビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』が、今回は10回と、より執拗に繰り返された。

しかも客入れの際にも、小沢健二の『今夜はブギー・バック』がバージョンちがいで流れつづけていた。ここはダンスフロアーなんだよと、強調するように。

それ以外でも、ダンサーたちの動きは反復し、
つまり一言でいえば、呆れるほど繰り返しの多い作品である。
そしてだからこそ、3回の上演すべてを観たいと、今回は思った。
もともと、おなじ作品をリピートして観るのが好きということもあるが、
なにより、作品の外側にもうひとつ反復をくわえてみたいと思ったのだ。

とはいえ、それは大した思いつきではなく、
しかも当然、ふつうなら、とても簡単なことだ。
チケットを予約し、毎日、開始時間にあわせて会場に赴けばいい。

ところが今回は、それが難しかった。
記録的な大雪のために。
東京から横浜への導線のいくつかは止まり、遅れも発生。
これから乗ろうとしている路線が、代替え輸送を検討しているとの情報もはいる。

それによって、『再/生』が3年前の震災の直後に誕生したことがあらためて、思い出された。
タイトルにふくまれた「/」という断絶。
簡単に日常を繰り返すことを許さない、突然もちこまれた不安定な世界を。

そう。ゆっくりと思い出す。
あのとき、横浜のSTスポットで生まれた『再/生』は死者に寄り添っていたことを。
まるで鎮魂の儀式であるかのように。

さらに思い出す。
それから約1年間、その作品は全国を廻り、
キラリふじみでの最終公演では、べつの作品に、
生者のための物語に生まれ変わっていたことを。
あるいは、大地の復活を願うような祈りも、そこには込められていたのではなかったか。
まるで、地を耕し種を撒き、豊穣を願う祝祭感もあったのだ。
そしてなによりも最後、踊り疲れて倒れたあと、
それでもなお立ち上がる俳優たちの姿にとめどなく感動したことも、当然ながら思い出す。


一方、今回、大雪の影響を受けながらも、3回の公演いずれも盛況のなか行われた、ダンサー・バージョンの『RE/PLAY(DANCE Edit.)』。
こちらは、俳優版で強調されていた疲労よりも、
前半、ダンサーたちの“踊り”を封じるというべつの負荷が印象的だった。
もちろん、ただそこに佇んでいても美しいのがダンサーの本質である。
ところが、ダンスを踊ってはいけない、という演出家からの指示が、
その最大の長所を縛る。

実際には、そのポージングはやはり美しいし、そこでの動きは面白い。
踊っているのではないかと思われるダンサーだっている。
飽きるほど繰り返される『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』ですら、
まるで飽きない。魅了される。
なのに、不自由さはたしかに伝わる。
踊ってはいけないという設定だけで、こんなにも窮屈に感じられてしまうのか。
それはちょっとみたことのない、不思議な“ダンス”だった。

もちろん、中盤以降からのダンサーたちは、呪縛から解き放たれ、
弾けるように本来の魅力あふれる踊りをはじめ、
生の輝きがステージ上に充満することになる。
踊ることが生のすべてであるかのような、
はたまた、死ぬまで踊りつづけようとするかのような輝きが。

しかも終盤、3回繰り返されるPerfumeの『GLITTER』でも、
驚くほど、ほとんどみな疲れはしない。
とくに初日、体力的な鮮度も高かったこともあるのだろうが、
曲間の無音状態のなか、だれも呼吸を荒げる音を洩らしてはいなかったのだ。
息を整える技術に長けているだけでなく、
呼吸の乱れを恥と捉える意識がダンサーにはあるようで、
そこは「疲労」を最大の言語として使っていた俳優版の『再/生』とはもっともちがうところだった。

しかし2日目、ダンサーたちは疲れを演じるようになっていた。
前日の雰囲気をしっているだけに、比べてしまうと、それはやや不自然な感じもあったか。
それでも、初日よりも動きの激しさが底上げされていたのにくわえ、疲労の蓄積もあったはずで、じつは演出なのか真実なのか、どちらとも断定できない状態が生まれていた。

そして最終日、あきらかに演技ではない疲労が舞台上に出現していた。
たとえば、ダンサーのひとり、きたまりの衣裳の背中。
初日、2日目には最後の『GLITTER』で認識できた汗による染みが、
最終日には、中盤の『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』で早くもみてとれたのだ。

なにより最終盤、それまで『GLITTER』の曲の終わりで綺麗にシンクロして倒れていたダンサーたちの足並みが、わずかに乱れた。
その瞬間、じぶんの意識が切り替わる。
それまで、もっと踊りつづけてほしいと、残酷にも囃したてたくなるような気分だったのが、
はじめて、もう立ちあがらなくてもいいよと感じたのだ。

それどころか、なぜ、じぶんは毎日こうやってただ座して眺めていることに安住しているのかという疑問も突如、湧く。
劇中流れる音楽は、観客に向けられてはいなかったか。
動け、踊れと。

実際には、じぶんたち観客が立ちあがれる瞬間は用意されてはいなかった。
音楽のライブやスポーツ観戦とは、状況がちがう、習慣がちがう。
立ちあがることも、ましてや一緒に踊りだすこともできはしない。
ただ、わかっていてもそれでも、こころのなかで衝動はたぎった。そしてその後、エンディング曲の『Dream Land』が流れ、Perfumeが「夢の中 キミは偽りの世界で」と唄うなか、演出の多田淳之介が『モラトリアム』や『リハビリテーション』、『東京ノート』という一連の作品のなかで、物理的に観客を動かそうとしつづけていたことを、じぶんは思い出していた。
さらに近作の『シンポジウム』では、観客のこころを動かそうとしていたことも。

つまりはすべて、その延長なのだ。
演劇が、舞台が、身体ではなくこころを動かすのは当然だろう、
なにを当たり前のことをいってるんだといわれてしまいそうだが、
いや、そうじゃなく、そういうことじゃないんだと、
うまく言葉にできぬあのときの気持ちを、いま思い出してもこころはさざめく。

そう、あのとき、
舞台から去るダンサーたちの導線は、観客の通路/出口でもあったのだ。
その重なり。
われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか。
3日間、繰り返されていたのは、
しだいに輝きを増すダンサーたちが体現していたものは、
踊ること、生命が動くことの全面肯定。
ずっと繰り返されていたのは、
もしかしたら、ただ安穏と座る観客への挑発とともに、
なにかの一時停止状態を解除する再生ボタンを押すこと、だったのかもしれない。


日夏ユタカ[ライター]

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