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2014年4月4日金曜日

05. 高橋雅臣「非合理的なことが非合理的であるがゆえに、合理的になる瞬間」

今年二度目の大雪に関東地方が見舞われた2月14日(金)、横浜、急な坂スタジオにて『RE/PLAY(DANCE Edit.)』を観た。
八人のダンサーがサザンオールスターズの『TSUNAMI』にはじまり、数曲、再生回数も曲ごとバラバラに躍り続けていく。

リズムという共通項で視覚と聴覚を束ねると、なにもないフロアに、カラフルなダンスと音楽の小宇宙が浮かび上がってくる。
それまでダンスに馴染みのなかった私は、人間の身体の動きがこんなにもおもしろいのかと気付かされ、ダンスという表現をもっと観てみたくなった。

配布されたパンフレットには、俳優とダンサーの違いについて、前者が人間になるのに対し、後者は人間以外の何かになるとあったが、まさにその通りであった。
けれど、ダンサーが人間であることをやめて目の前に存在するとき、むしろ、その背後にいる「人間」が、まるで金環食のように強く意識された。

この作品は台詞は一部を除きほとんどない。
各場面の並び(曲の順番)に物語りが立ち現われてくる。
目の前の八人それぞれのダンスの魅力と対比的に、物語は踊ることそのものを相対化していくように感じられた。
例えば、The Beatlesの『Ob-La-Di, Ob-La-Da』が何度も何度も反復される場面では、少しずつ小さな変化はあっても、ダンス一回一回の価値が相対化されていく。
作品を通して踊っている最中に時折ダンサーがそれぞれその場に倒れるところや、唯一台詞が交わされる「打ち上げシーン」では、ダンサーがダンサーであることの隙間から、生身の人間ひとりひとりやその生活が見えるようだった。

言うまでもないことだが、ダンスに限らず、芸術は究極的には、個人が生きていく上でも、社会にとっても、なくても構わないもの、または優先順位の低いものである。
人はパンのみで生きるにあらずと云っても、まずパンがなくては何もない。
ある作品がどれほど素晴らしいものであっても、それに比例して、求める人がいつも増えるわけではない。
あえて挑戦的に言えば、世の中からはほとんど無視される場合の方がずっと多いだろう。
そのことは、当然、芸術によって生きている人の生活とも無関係ではない。
だから、しばしば、芸術の社会的な機能や、個人的な効用を以って、社会や自分自身に説明する「理由」を探す。
それは、ときに必要なことだろう。
けれど、目の前にあったのはもっと根本的なことだった。

一時間以上続いて最後に踊られるPerfumeの『Glitter』は極めて運動量が激しい。
ここまでくるとダンサーが踊っている最中に「倒れる」のが、演出なのか、本当に疲労でそうなっているのか、もはや境目が曖昧になっていく。
ついには観ている側にとってフィクションであることをやめていた。

非合理的なことが非合理的であるがゆえに合理的になる瞬間だった。
意味があるからいきるのではない、意味などなくてもいい、むしろ、ただそれをいきていたいと強い衝動でいきたとき初めて意味がうまれる。
そこに達したとき、作品は観ている者に自分も彼ら彼女らのようにありたいという衝動を与える。

この作品は、ダンスや芸術だけではなく、人がいきるということそのものの比況にもなっている。
理屈を辿れば、私達がいきることそれ自体、非合理的でしかないだろう。
何かのきっかけで、積み上げてきたことが無になる。
どんなことであろうと長い年月を経れば結局は跡形もなくなる。
けれど、限界まで踊り続けている目の前のダンサー達は、そんなことは私達がいきる上でさほど重要ではないということを身でもって示してくるようだった。
たとえどこまで非合理であっても、いきてしまっている、そのことへの強い肯定だった。

こちらに考えさせる、心地のよい「前衛」であった。
この作品が「既にある何か」を壊すという企図あるいは行為それ自体が目的なってしまったがために、その結果に対して無責任な「悪い前衛」なのではなく、「そうせざる得なかった」ことが結果的に、既存にはない新しい表現方法となっているからではないだろうか。
一方で、物語の伝達の手段となることとは関係なく、ダンスそのものが魅力的で、
演劇作品であると同時にダンス作品にもなっている。
この作品にか触れる機会がわずかな人達しなかったのは惜しい。

ある作品が良いかどうかが最終的に、触れる前後で少しでも世界の見え方が変わったり、もう一度それに触れたくて仕方なくなったり、誰かに話さずにはいられなくなったり、その後も思い出したりするかどうかにあるのなら、この作品は紛れもなく、そのようなものだった。

高橋雅臣(2/14 観劇)

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